零れ落ちた先で

お題「#この1年の変化」

コロナ禍において世間は正に動乱であった。マスクが高騰し、スーパーから物が消えた。 商店街からは飲食店が消え、代わりにマスク屋が出来た。 街中は元気な子供ではなくUberEATSが駆け回っていた。

テレワークが増え、オフィスの意味が問われるようになった。GAFAの収入はどんどん増え、代わりに名も無き中小企業はどんどん吹き飛んで行った。

このような悲惨な状況でも1年前の私は自信に満ち溢れていた。 東証一部上場企業から内定を貰い、卒研も順調に始まっていた。 このまま行けば
順当に卒業し、両親も安心のサラリーマン人生が始まると思っていた。 そう、思っていた。

今私は近所の心療内科に通っている。 ヨボヨボのおばちゃん先生に前回全く効かなかった睡眠薬よりも更に強い薬を貰うためだ。

「あなたね、この薬でだめならもう精神科行きなさい。」

先生は諭すように言ってきた。

「はい。 すみません。 ごめんなさい」

私は絞りカスのような声で途切れ途切れに答えた。 ここ半年くらい謝る言葉ばかり使っていた。

先生はカルテをペラペラめくりながらこちらを一瞥し、すぼまった口から器用に言葉を出した。
「学校は? 通うの?」
「いえ、通いたくありません。すみません。」
「あぁ、そう。で、まだひきこもってるの?」
老いてるからか、その掠れた声には哀れみも軽蔑も含まれてはいないように聞こえ、 ほんのすこしだけホッとした。目の前にいる老医師からすれば私のようなものなぞよくいる精神弱者にしか見えないのだろう。 実際私の精神が回復しようがしまいが、この田舎には病院はここしかない。 ちょっと前まではもう1つあったが、コロナ禍に呑まれてしまった。 この老婆は座りながらにして勝ったのだ。 さらさらと慣れた手つきでボールペンを滑らせる姿すら余裕を感じさせた。

「いえ、最近近所の古本屋でバイトを始めました。」
「へぇ」

心底どうでもよさそうだった。 その証拠にボールペンの動きがとまった。

「ま、睡眠薬出しとくからそれで無理なら今度は精神科行ってね。」
「はい、ありがとうございます。 すみません。」

私は診察室を出た。 素っ気ない声でお大事にーと誰かが言っていた。 イラッときた。 今の声が誰のかは分からないが殴りたくなった。 以前まではこんな衝動に駆られることもなかった。 それもこれもあたまがずっとぼんやりしており思考が巡らなくなったからだ。

私は診察代を払い、すぐ近くの薬局に行った。 処方箋を提出するためだ。

「こんにちはー、お薬準備出来たら呼びますのでそちらでおかけになってお待ちください。」
「はぁ、すみません。」

受付の女の人に言われた通り近くの椅子に座った。女の人の名前はネームプレートに書いてあったが、眼がぼやけてよく分からなかった。 目が悪くなってからの癖でついつい眼をすぼめながらあるいていた。赤ん坊を抱えた母親らしき人物が寝ている我が子にやさしい笑みをむけていた。糸目状態の私は傍から見ると笑っているように見えたかもしれない。

「なんだい、兄さん。目、悪いの?」

そう思っていた私の目にだるまが入り込んできた。私はわっと短く驚いた。 しかしそれはダルマではなくギョロ目でハゲ頭のメタボオヤジだった。

「あ、はい。そうです。 すみません。 メガネはちょっと前に割っちゃって。すみません。」

私がそういうと、だるまはそうかい、と鼻で笑った。 私はそれがムカついた。 一瞬眉間にシワがより、拳を作ったがその拳は思い切り腿にうちつけた。 パンっと発砲音がして、その後を痛みが追いかけ、脳に到達した。 痛みは脳の中で一瞬弾けて花火のように散った。
私は軽く深呼吸をして、3秒目をつぶった。
エタノールの消毒液臭いにおいが充満した室内のおかげであたまが冷静になってきた。ここのところ、ぼんやりしてるかイライラしてるかのどちらかだった。薬局内でBGM代わりに流れているテレビではニュースをやっていた。 特集はコロナ禍での就活だ。 リクルートスーツを着た大学3年生が不安を抱えながらも初めてのオンライン面接に挑む様がドキュメンタリー式で公開されていた。

「貴方は学生時代何を頑張ってましたか?」
「貴方の長所は?」
「弊社があなたを雇うメリットは?」

丁度1年前就活戦線の最前列で戦っていた私からするとどれも聞きなれた質問だった。 当時の私ならどんな質問にでも答えられる気がした。 しかし今は答えようにも言葉が上手く話せなかった。 文章を組み立てている途中で脳がフリーズしてしまうことが頻繁に起こるからだ。あの頃は毎日が充実していた。 自らの将来のために熱を持ってパワフルに動いていた。同時並行で処理していた授業もほばA評価と好評だった。 もちろん、全出席、課題もテストも自力でやった。それに入りたかった西洋哲学のゼミに入れることも決まっていた。 何もかもが熱狂的で毎日が打ち上げ花火のような熱量だった。 その後、上手く就活で内定を取り、ゼミ課題をやってる時くらいからおかしくなった。丁度緊急事態宣言くらいのころだった。 折角のゼミイベントもほとんどなくなり、就活先の内定者イベントも開催されなくなったあたりだと思う。 あたまが働かなくなった。 始まりは疲れかなとも思ったが、全然眠れなかった。 不眠が続き、イライラが現れ始めた。 これにはコロナショックに対して何もできない無力な自分に対するいら立ちも含まれていたと思う。それでも脳が、次に心がやられ、最後は体までもがゼリーに包まれたように動かなくなった。

そんなことを考えていると就活特集も終わりに差し掛かっていた。 どうやら今回取材されていた学生は1次面接の結果に手応えを感じたようだ。 これから先への不安を抱えながらもホッと一息つくようにニッコリと笑うテレビの中の彼を見て、私はまたもやイラッとした。 心の底では応援したいと思う自分もいるのだが、それよりもいら立ちの方が大きかった。怒りを抑えきれなくなった私は自分で自分の額にゲンコツをぶつけた。 鈍い痛みが拳と額の両方に響く。 やめられなかった。 2発、3発とぶっていくと、段々周りの人も私を見るようになった。けれどそんなことは関係なかった。 私は結局7発殴った。 ジンジンと骨に広がる痛みが心地よかった。
他人を応援できない自分を、キラキラ出来ていない自分を、学校に半年近く行けていない自分を罰することが出来たようで気持ちよかった。 痛みが広がっている間だけはほんのすこしだけ許されている気がした。 私は少しだけマスクの中で笑えた。 いら立ちは消えていた。その代わりにまたあたまがぼんやりと、どんよりとしてきた。 僕はソファの背に体を投げ出して強制的に仰向けを作った。 こうでもしないとテレビをみれないと判断したからだ。 ここ最近テレビなんか全く気にならなかったが、この特集だけは見逃したくなかった。 これも痛みの効果かもしれないと思うとまた笑えた。
特集もいよいよエンディングだ。 力強い音楽がかかり、インタビュアーがオンライン面接の片付けを終えた就活生に聞いた。

「夢はありますか?」

音が聞こえなくなった。 それはテレビの音が小さくなったとかではない。私の心臓の音が大きくなったからだ。 どぅんどぅんと激しい重低音が頭の中で木霊した。音が聞こえなくなったのはそのせいだ。 息が荒くなる。 両の手が拳をつくり、ゴリラがするドラミングの要領であたまを何度も殴りつけた。 今度は数えるのも馬鹿らしくなるくらいに殴った。痛みの波は両側の頭蓋から伝わり、中央部分で融合しより大きい痛みとなった。 痛みが大きくなるほど自分のことが分からなくなった。 どうしてこんなに殴りつけているのかも分からなかった。けどそうしないとあたまのなかでノイズが走るのだけは分かっていた。 誰かが私の名を強く怒鳴りつける声がした。 おかしい、この場に私がたかひろだということを知っている人間がいるはずなんて無い。よしんばさっき処方箋を渡した薬剤師は知っているが、それでもたかひろなんて呼ばない。
しね、しね、お前なんかなんもできない、自殺しろよ、やめなさい!、ドアホ、しね、やめろなんでそんなこと言うんだよ。私が何をしたんだよ。呼吸が乱れる。口元からヨダレが垂れた。 拳は止まらない。 遠くで誰かが叫ぶ声がして、次の瞬間には強い力で両腕を掴まれた。そのせいであたまを殴れなくなった。 ああ、痛みの余韻が無くなると私の頭はノイズで埋まる。 止めてくれ、今の私には痛みが必要なんだ。 誰だこんな事をするのは。 呼吸が上手くできない。 肩と二の腕が疲れてきた。 何だか胸筋も苦しい。 体のリズムが乱れ、ぼやけ出した視界の中にケンタッキーフライドチキンの紙袋をもった受付の女の人が駆け込んでくるのが見えた。 クリスマスはもう2ヶ月も前に終わってるだろとノイズが走り出したあたまの隙間で思ったが、一瞬で目の前が真っ暗になった。次に来たのはむせ返りそうなフライドチキンの匂いである。

「はい、大きく吸って、そのまま吐いてー。大丈夫だからね。ここは医療施設だから」
声は背中からした。 きっと私の両腕を縛ってる男のだと思った。 本人は大柄な私がこれ以上体に痛みを与えないようにと拘束しているのだろうが、そうやってきつく縛ってくれているおかげで両腕は痛みを脳に送ってくれるようになっていた。 私はこの人はもしかしたらいい人なのかもな、と思うと同時にその優しさにイラッときた。

「ずび、はぁー、ヴぁぜん。」

私はこんな時でも謝ることしかしてなかった。 あたまから痛みの余韻が消えだし、両腕からのだけではあたまの中を占領するノイズにあまり抵抗出来なくなっていた。私はもっときつく縛ってもらおうと謝りながらも拘束を解かんともがいてみた。後ろにいるこの男性も薬剤師なら私に痛みという薬をもっと与えて欲しかった。 彼は多分優しいはずだから、と私は久方ぶりの期待をした。

「こら、うごかないで、ゆっくり呼吸ですよー。ふーはー、ふーはー。」

彼はやっぱり優しかった。でもやっぱり両腕如きでは足りなかった。 ここまでくると、少しずつ呼吸も落ち着いてきた。 呼吸に反比例するようにまたノイズが増えてきた。 私の脳内では私が今まで出会ってきた人による罵詈雑言のシャワーが始まりだした。私は笑えてきた。近くで赤ん坊が泣き出した。 その声が馬鹿なクラクションに思えてきて、また笑えてきた。

「ずみ、ずみま、あはぜぇん。ごめへぇんはぁんなざい。 」

私の声はいくら出してもフライドチキンが入っていた紙袋をギャッキャッと変形させるだけなので、恐らく他の人に正しく届いては無いのだろう。 それもまたおかしくて笑えてきた。 思考が明滅するようにノイズと無気力を行き来しだした。私は無気力の方に振り切れることを期待した。


全てがどうでも良くなった。脳の中を駆け巡っていたノイズも、身体中を回り始めたおかしさも、両腕からの痛みも後ろの男性の優しさも、袋の中からする香ばしいチキンとフライドポテトの匂いも、そしてその袋を支えているさっき私の処方箋を受け取ってくれた女性も、怪訝な顔でこっちを見るだるまも、激しく泣き出してそのままの赤ん坊とその責任を私に求めんばかりにこちらを睨んでいるその母親も、いつの間にかスイーツ特集コーナーをやっていたテレビ番組も。

「なにもかもがどうでもいい。」

一瞬、誰も喋らなくなった。赤子でさえしゃっくりをしてすぐにその静寂に加担した。いつの間にか私の両腕は開放され、だらりとなった。私の両方の腕の手首と肘の間が真っ赤になっていた。 そこから来る痛みと室内のエタノール臭、そして振り切った無気力が私に冷静さを取り戻させた。

私は徐に立ち上がって言った。

「ご迷惑をお掛けしました。」

「だ、大丈夫ですか?」

私は声のした方向に振り向いた。 やっぱりこの男性はやさしいなぁ、と思った。

「はい。何とか落ち着きました。 本当にすみませんでした。」

私は頭を下げた。 そうするのが正しいと幼い時に母にならったからだ。私は顔を上げて私の両前腕部を真っ赤に染めあげてくれた男を直視しようとした。 目の前の男は丸メガネに小太りで、何だかひょうきんな見た目だった。私は彼ならその見た目と優しさで保育士にも向いてるのではと思った。

「あの、佐伯さん。 お薬あれだけで本当に大丈夫ですか? ここだけの話、畑山先生はもうご高齢なので他の先生を紹介しますよ? 今日中にでも行ってみてはどうでしょうか?」

2、3回覗き込むようにしてゆっくりと瞬きをする彼を見て私はそうしてみようか、と思った。

「わかりました。 行ってみます。あの、皆さん、本当にご迷惑お掛けしました。」
と言って、私はあの、とつづけて
「もう私の薬用意出来てますか?」
「あ、はい!」
「じゃあ、私はもうお暇したいので、お会計いいですか?」

私は体をいつも以上に丸め、すいませんすいませんと言いながらレジに行って表示された額のお金を払った。

煮こごりの中に入れられたみたいなあたまで何とか考えられたのは早くここから出たいということだけだった。 さっきまでは爆速でノイズが駆け回っていたのに今ではそれが嘘みたいだった。

「佐伯さん、お薬手帳はお持ちですか?」
レジはさっきまで袋を抑えてくれていた女の人がうってくれた。

「いえ、ないです。すみません。必要ないです。すみません。あと、袋ありがとうございました。」
「いえ、仕事ですから。お大事に。」

さっきまであんな事があったにも関わらず、彼女は何度もこの会計作業をやってきたのだろう、慣れた手つきでやってのけた。 しかし、決して私と目を合わそうとはしてくれなかった。 私はそのことでまた拳を作り、再度自分を殴った。あ、と誰かが言った。
「ははまたやっちゃった。すみません。 もう帰ります。」

申し訳なく笑う私を見て赤ん坊が笑った。 母親は赤ん坊の顔だけを見て、一切こっちを見ようとしなかった。

私は足早に薬局を出た。 去り際、建物の奥にいつの間にか移動していただるまがエヘンッと大きい空咳をした。私はそれがでてけっと言ってきているように聞こえたので、薬局を出て直ぐにまた自分のあたまを殴った。

「すみませんすみませんすみません。」

私は午後の日がさす誰もいない駐車場で1人呟いた。